エドゥアール・マネに「死せる闘牛士」という傑作がある。横長の画面に闘牛士が描かれているが、闘牛士の他には布のムレタと剣のみである。男は闘いに敗れタイトル通り死んでいるのかもしれないが、横たわっているだけのようにも見える。 背景は何も描かれていないが、左足首や肩口に見られる影と流れる血の様子から地面の想像は可能だ。しかし影や血の分量は少なく、また背後と地面の境がない為に、人物は 写実的だが現実感はなく、横たわった男の存在感だけが強く感じられる。
この作品、当初は大きな作品の下部分だったが、批判を受けてマネ本人が分断し今の作品としたらしい。その際 背景を塗り替えたそうだが、色を替えただけなのか、又は 何か描かれていた対象を塗り潰したのかは不明だ。しかし、背景には何も描かれていない今の作品でよかったと思う。
この作品の中で闘牛士は死んでいるのだろうが、まるで生きているような実在感を保っている。言葉は変だが “生き生きと死んでいる”。それには色々な要素が関係しているが、背景に何もない構図も要因の一つ であり、マネ本人もその事に気が付いたに違いない。そして、この無背景の現実感のない空間へ単独の人物を配する構図は、スペイン旅行で観たベラスケスの「道化パブロ・デ・バリャドリード」を経て「笛を吹く少年」(1866年作)へと繋がる。
そう考えるとマネが作品を分断した行為は、結果的に “現実感のない空間であるにも関わらず人物を生き生きと描いた(新しい方法でリアリティを感じさせた)” 作品制作のきっかけになったのだから、元の作品を批判した人は絵画の歴史的には良い批判をした事になるのだろう。何とも皮肉で面白い話だ。しかし、歴史とはそんなものなのかもしれない。
2023年 記
