マルセル・デュシャンは、私にとっては左程興味も関心もない作家だが、その影響が現在まで続いている という意味では、重要な作家だとは認めている。そして その影響の大きさを考えると、やはりデュシャンに触れない訳にはいかないだろう。
デュシャンはクールべ以降を「網膜のみに向けられた絵画」と批判し、かつて絵画は「宗教的・哲学的・道徳的でもあった」として、有名な「泉」を始めとするレディメイドで、失われたその機能を取り戻そうとした。 しかし、よく考えてみて欲しい。近代以前の場合には、画家は宗教画を依頼されたのだから宗教的なのは当たり前じゃん? クールべ以降の作家は、自分で題材を自由に選ぶ事が出来た。デュシャンの言うように宗教的でなければならないと言うなら、題材が自由でも宗教画を描かなければならないという事か? そう言うデュシャンも宗教的作品は1911年の「洗礼」1点のみではないか?
確かにルネサンスの頃は、宗教画が沢山描かれていただろう。しかし、現在優れた芸術絵画として伝え残っている作品は、その中でも空間が表現されている作品だ。描かれているのが 天使やヴィーナスだろうと関係なく、絵画として空間が表現されている作品だ。デュシャンの言う通り宗教的な作品に価値があるとするなら、その当時の作品全てが今も優れた芸術として伝えられていなければならないが、そうではない。つまり、宗教的要素は第一義的ではない。絵画において、一番重要なのは何度も言うが空間 だ。 確かに、その作品が宗教的要素や哲学的要素が内包されていれば、その作品は色々な視点から語られ得る豊かな作品と言えるだろう。しかしそれは、現実を表現している(空間を表現出来ている)というリアリティあってこその話であり、一番重要なリアリティも無く、他の要素のみで成立している作品は滑稽なだけではないだろうか。
デュシャンは「泉」において便器を観念的に日常性から切り離し、「芸術とは何か」と哲学的に問い掛けた。確かにその事に意義はあるが、問い掛けたその作品が優れた芸術作品かどうかは別の話 だ。 また その問いかけはデュシャン一回で十分であり、何度も何度も繰り返し問う必要はなく、ましてや現代でも同じ問い掛けをする必要はない。いつまでもデュシャンと同じ事をしてても意味は無いし、私達はデュシャンの問い掛けに答えを出さなければならない。「芸術とは何か」というデュシャンの問いに対する私の答えは、中核的芸術として、このテキストの初めに書いた通りだ。
ところで私の私見だが、デュシャンはレディメイドによって「芸術とは何か」と問い掛けたが、その作品(レディメイド)を彼自身 実は芸術とは思ってなかったのではないだろうか。その作品は、彼の考える芸術が近代以降変わってしまった為に、以前の芸術を復興させる為の手段でしかなかったのではないか。実際日本のある評論家がデュシャンを訪ねた際、中世の寺院や近代美術ではない美術館へ行くように示唆したらしい。つまりそれは、そういった所にある作品こそが本当の芸術だとデュシャンは言いたかったのではないか。
またデュシャンの行いは、近代以前の古典を愛してはいるが 自分では芸術を創り出す事が出来ないという その愛憎が絡み合い、美しい美術作品とは程遠い便器をあえて用いて、当時の美術界に仕返しをしたようにも思える。芸術を復興させようと問い掛けた作品が、彼の意に反して賞賛されたのだとしたら不幸な話だ。何故ならその作品は芸術ではないのだから。
結論。つまるところ私にとってデュシャンの作品は、哲学的ではあるが哲学ではなく、芸術的でもあるが芸術でもない、中途半端で関心の薄い作品だ。
芸術とは何か? そんな事言われなくても日々考えているし。
2022年 記
