美術か中核芸術か 私の場合


私は先のテキストに、絵画を鑑賞する場合 美術作品として観るか、又は中核的芸術作品として観るかによって見方が違うと記載した。 美術作品として観る場合、個人的な想いを投影させたり 好き嫌いで判断したり、又は 作家の言葉や心情を汲み取って鑑賞し判断するのは何も問題はない。むしろ一つの見方だけではなく様々な視点から観るのは、また違った魅力が発見出来て楽しい鑑賞方法になるだろうとも思う。しかし中核的芸術絵画として空間を観る場合、こうは行かない。

確かに一つの作品を制作するにあたり、作家は色々な想いを込めて制作している。モデルが愛する人であれば制作に熱も入るし、鑑賞者も作品の細部に その愛情の表れを感じ取るだろう。だが作家の言葉や想いの大きさ、汲み取った心象の内容などでの作品判断は個人差が出て普遍性は無く、鑑賞者の個人的感想になる。そしてそれは美術作品としての鑑賞法だ。 空間が表現されているか否かの判断は、事実である描かれた結果 (年代・大きさ・色・形・顔料の素材・テクスチャー等々) を判断材料とし、客観的に作品を形式的に観て分析する事でしか成し得ない。非情な話だが、作家の想いと空間が表現されているかどうかは関係がない。 そして私は中核的芸術絵画に関心がある為、作品を常に形式的に観ている。その作品の、どの部分がどのように描かれている為に、こういう効果があり、このように見える等だ。

通常、形式的に作品を観る と言うと、作家の作品に対する想いや内容を無視した鑑賞法に感じられるかもしれない。しかし作家が表現したい想いは、どんなに素晴らしい内容や思想だったとしても、絵である以上、完成した作品の色や形などの見える部分、つまり形式的部分でしか表されない。見えてこない内容に対して一作品毎に説明文を付けて解説するのも変だし、そもそも作品とはそういう結果が全ての非情なものだ。

そう言った点から、私は自分の作品に対して補足を付けたり、必要以上に説明するのを好まない。例えば、私の作品は社会と芸術の問題をテーマにしている とか、宇宙の秩序を表現している等と言っても、そう観えるとは限らないからだ。 私の作品を観てもらう場合は、美術作品 又は中核的芸術作品どちらからの視点だろうと、観る前の作品情報は極力少なく、先入観無しに観て欲しいと思っている。

※作品に説明文を付けることについて

絵に限らず、そのメディアで表現出来る内容には、それぞれ限りがある。もし出来上がった完成作品の他にも補足が必要な表現ならば、それは媒体の機能を超えており、その媒体には向いていない表現内容という事になるのだろう。

2023年 記

検索語を上に入力し、 Enter キーを押して検索します。キャンセルするには ESC を押してください。

トップに戻る